今、そして未来の自分と向き合うガール世代のために、人生の先輩からのメッセージ。今回は17歳でCMデビューし、数々のヒット曲を生み出した歌手の森高千里が登場。20代での多忙な芸能活動、30代40代での結婚、子育てで得た経験を糧にして、今も自分らしい表現を模索しながら輝いている。「年齢を重ねることがオバさんになることではない」と、パワフルに教えてくれる森高千里の人生観から、毎日を彩り豊かに生きるためのヒントを探して。
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プロの厳しさに直面した芸能界入り。音楽が“好き”という気持ちを原動力に
歌手として生きることを決意。高校時代に受けたポカリスエットのイメージガールコンテストをきっかけに18歳で歌手デビュー。ガールズバンドを作って活動していたこともあったそうですが、芸能界にはもともと興味がありましたか。
小さい頃からピアノを習ったり、吹奏楽部に入ったり、高校時代にはバンドを組んでみたり…。音楽自体は好きでしたが、プロの歌手になろうとか芸能界に入って仕事をしようとはまったく思っていませんでした。音大を目指していましたが、ピアノ先生になって子供に教えられたらいいなと思っていたんです。芸能界でのデビューは予想していなかった出来事だったということですか?
まさか熊本に住む私が受かるなんて思っていなかったので、友達と一緒に記念に受けようという軽い気持ちでした。受かって自分が一番びっくりしましたね(笑)。デビュー当時は女優と歌手活動を両立していたそうですが、早い段階で歌手活動に重点を置くように。何かきっかけがあったのでしょうか。
歌手と映画、CMでのデビューが決まっているオーディションだったので、最初は仕事の選択肢がない状態。その上、いきなり熊本から上京しての活動。めちゃくちゃ熊本弁で喋っていた女の子で(笑)、イントネーションもなかなか直らないし標準語にも慣れない…。その中で、うまくいかない情けない気持ちや自分の中での戸惑いも多くて、日々その気持ちと格闘していました。自分で今見返しても「へったくそ(笑)!」と思うんですけが、経験がないので本当に全部下手くそで、監督に日々怒られながら…。でも、決まったことは一生懸命やらなきゃいけないと思ってやっていました。デビュー後は、歌も演技のお仕事もやっていくというのが事務所の意向。ただ、やっていく中で歌手と女優の両立がすごく難しいことだなと思っていました。それが19歳くらいのときでその年、急性胃腸炎で1年に2回入院したんです。うまく表現ができなくて悩んでいたことが身体に出て、精神的に追い詰められていることに自分でも気がついてしまった。このままではいけないと思っていたときに、ライブハウスでライブをしたんです。それがとても楽しくて、もう1回やりたいって! 仕事をはじめてからこんな気持ちになったのは初めてでした。これまで、アマチュアバンドを組んでいたときのライブの楽しさやピアノの発表会で1曲を完成させた嬉しさを経験していたはずなのに、プロの難しさや厳しさを目の当たりにして、デビューしてからは音楽に対する純粋な“好き”という気持ちを忘れてしまっていました。そのときに気持ちが固まって、女優との両立ではなく、歌をやりたいということを当時のマネージャーに伝えました。そのとき、私は全然売れていなかったんですけど(笑)、事務所の方はそうしようと言ってくれて、そこから歌手だけでやるようになりました。
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まわりのイメージと本当の自分とのギャップに戸惑う日々。自分自身を言葉に託した歌詞が、新たなきっかけに。
1988年にリリースしたアルバム『ミーハー』のタイトル曲『ザ・ミーハー』で初めて歌詞を手がけて以来、多くの曲を作詞されてきた森高さん。独自の世界観がある歌詞に定評がありますが、自分で作詞をしようと思ったきっかけは?
プロデューサーに作詞をやってみたら?と言われ、チャンスをもらえるのであればやってみようとはじめました。高校時代に組んでいたバンドで、みんなで集まって変なオリジナル曲を作ったことはあったんですが、作詞はボーカルの子が担当していたので本当に未経験からのスタートでした。作詞が未経験ということよりも、変なオリジナル曲というのが気になります(笑)。
そう、変な曲だったの! 変な曲すぎて、覚えてないくらい(笑)。自分の曲を自分で書くなんて考えもしていなかったのですが、チャンスをいただいたんだったら頑張って書こうと思って…。曲の構成でAメロ・Bメロ・サビというものがあることも知らない中で書き始めたので時間もかかりましたね。ただ、書き方や作詞のあり方を分からないまま入ったので、聴いてくださった方は型にハマっていない感じがしたのかな? それが「おもしろい」とか「独特」、「世界観がある」と言っていただけたのかなと、今振り返ると思います。
その独自の世界観を持つ歌詞の言葉選びや構成は、どんなところからインスピレーションを得ていましたか。
基本的には、自分の身の回りにあるものです。東京に出てきて、標準語やイントネーションに慣れていないから、インタビューや仕事のときにあまり喋れなくなった時期があったんです。自分では標準語を喋っているつもりなのに、イントネーションが違うと言われると恥ずかしくて、何を喋っていいのかわからなくなって…。そうすると、おとなしいですねって言われることが増えたんです。私自身はどちらかといえば活発なタイプで、おとなしいなんて今まで言われたことなんてなかったのに(笑)! そう言われてしまうことにも違和感を感じていて、自分が出せていないんだな、と。だから、作詞をするなら自分のことや自分らしいと思うことを書きたいと思っていました。『ザ・ミーハー』という曲も、そのときはミーハーという言葉が上京した自分に重ねるとしっくりする言葉だったので、そこから書きはじめました。 -
1988年のアルバム『ミーハー』(写真右下)で初めて作詞を手掛け以来、ユーモアのある言葉選びと世界観に注目が集まる。(CDはすべて編集部私物)
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会場の一番うしろまで届けたい! 衣装やパフォーマンスで自分らしく表現できる方法を探して。
ミニスカートにキラキラとしたスパンコールのジャケットといった衣装やコンサート演出も当時から話題でした。そのアイディアは、ご自身発のものだったのでしょうか。
私がデビューしたときは、まだアイドルブームの時代。けど、可愛い女の子たちとなんとなく自分は違うと思っていましたし、会社としてもアイドルでもアーティストでもない方向性でいこうというのが方針で、最初のデビューは“GジャンにGパン”というスタイルでした。ただ、自分がやりたいことはライブやステージに立つことなのに、Gジャンや革ジャンにGパンってすごく地味だなと思っていたんです(笑)。一番後ろの席の人にも届くインパクトが必要だと思って、スタイリストさんと一緒に考えるようになりました。好きだったピンクレディーや小さい頃に見ていたアイドルやアーティストの方たちの衣装のイメージが鮮烈に残っていたこともあって、当時好きだったミニスカートやキラキラしたもの身につけるようになりました。森高さんの衣装のインパクトは、ステージを中心に考えていたからだったというので腑に落ちました。
ちょうどそのときは、バンドブーム。テレビもそうでしたし、今のフェスみたいな感じではないのですが、いくつかのバンドが集まったライブイベントも多くありました。相対的な人数のせいもあると思うのですが、やっぱり1人だと地味なんですよね(笑)。勢いや派手さのあるバンドグループたちの中で「1人でどう目立だとう?」「目立たなきゃいけない」と思っていました。そんな思いもあって衣装や歌詞、パフォーマンスがどんどん派手になっていったような気がします。 -
ミニスカートとポップな色使いの衣装、アイコニックな振りが話題となったシングル『17才』。(VHSは編集部私物)
1989年にリリースしたシングル曲『17才』では、ボリュームのあるミニスカートの衣装にアイコニックな振り付けが人気に。
今でも『17才』という曲の衣装は印象に残っていると言ってくださる方が多いのですが、この衣装もステージから生まれました。ライブで着ていた衣装がステージでも映えて、ファンの方たちにも好評だったので、この曲をシングルで発売することが決まったときに、ステージ用の衣装をテレビでも着ようという話しになったんです。そこでいくつか色のバリエーションができました。曲中の振りで見える「M」のイニシャル入り“見せパン”にもかなりの注目が集まったそうですね。当時のコンサートの映像を見たのですが、一度見たら忘れられないインパクトがありました。
振りは先生がつけてくれたんですが、振り向くときにミニスカートなのでどうしても中のパンツが見えるんですよね。もちろん見えてもいいブルマ的なショートパンツを履いていたんですけど、どうせ見えるなら森高の「M」でも入れようかって! でも、自分で思っていた以上にインパクトが強かったみたいで(笑)! 今考えると「それはそうだな」と思うのですが、その当時はそういう振り付けだし、どうせだったら「M」っていれたほうが可愛いじゃん!という感覚でやっていました。私個人としては、本当になんとも思っていなかったんですけどね(笑)。ご自身で当時を振り返ったときに、1人の歌手として評価されたポイントは何だと思いますか。
どうせやるなら、自分らしさや個性が大事だと思っていました。歌や踊りが上手いとか、作詞作曲ができるとか、実力がある方たちがたくさんいる中で、私はそこまで実力があるわけではない。ずっと歌手になりたくてやってきたわけでもない。けれど選んでいただいて、自分でやると決めたんだったら、作詞や楽器、衣装など、自分らしい表現方法を探してみようと。そう思って、できることをやりはじめてから「ちょっと変わっているね」とか「癖になる」と言っていただけることが増えていき、自分の居場所が広がっていった感覚がありました。 -
歌手として、女性として、どう生きよう? 悩みながらもたどり着いた自分らしいスタイル。
1994年からは2年間、顎関節症のためにライブ活動を休止した期間があったそうですね。デビューから着実にご自身の居場所と人気を広げていたタイミングで、一番好きなライブを諦めないといけなかった。この出来事をどんな思いで乗り越えられたのでしょうか。
当時はツアーや学園祭、イベントを入れると年間100本近くの公演をしていました。活動休止を決めたときもすでにツアーを発表していて、キャンセルをするとたくさんの方に迷惑をかけることもわかっていたのでとても苦しかったですね。ただ、その前のツアーのときから終わった後には顎が痛くて、ご飯を食べることもやっとの状態でした。体は悲鳴をあげていたので、これからも歌いたいのであればここで休んで治療しないといけないと思い、決断しました。幸い私の場合はコンサートができなかっただけで、レコーディングは時間をかければできましたし、テレビの出演やシングルの発売もしていました。活動をまったく止めなかったことが、モチベーションを保ち続けることができた理由だと思います。20代の活動中でかけられた言葉で、今も印象に残っているものはありますか。
ツアーを休止していた期間は、次のコンサートがいつできるのか、このままできなかったらどうなるだろうとストレスや不安も大きかった時期。そんなときに母から「自分がやりたいことをやっているのだから、焦らずに長い目で見た方がいいと思うよ。何かあったら、いつでも帰ってくればいいんじゃない」と言葉をかけられたのは、今も心に残っています。そのときは、東京に出てきたときのホームシックとはまた違うホームシックもあったのですが、母の言葉に安心しましたね。30歳のときには俳優の江口洋介さんと結婚。その後は、お仕事をセーブされていますよね。これまで築いてきた歌手としてのキャリアがストップしてしまうかもしれないという不安や迷いはありませんでしたか。
迷いや不安は、正直あまりなかったです。もちろん周りのスタッフやファンの方に支えられてやってきた仕事でしたが、ふと1人になったときに、これから私の人生はどうなっていくんだろうという漠然とした不安を感じていていました。それは歌手としても、結婚や出産を含めた個人、一人の女性の人生という意味でも…。周りの友人が結婚をしたり家庭を築いたりする姿を見て、結婚はすごく素敵なものだなと感じていたので、夫に出会い、結婚したいと思うこの気持ちを大切にしたいなと。子供が生まれたあとは自分で育てたいという気持ちが前提にあり、子供を置いてツアーに回ったり、長期間家を留守にしたりすることは現実的に難しいと思っていたので、自然と活動をセーブするという流れに。そのときは子育てに必死だったこともあって、歌えないことやステージができないことへの不安はあまりなかったですね。 -
楽しい気持ちはきっと伝わる。無理せず、今の私に似合う形を探して活動を再開。
デビューから25周年のタイミングでは、活動を本格的に再開されましたのが決心した理由は?
子育てをしているときは、10年後に活動を再開してライブやツアーができるなんて全く想像していませんでした。ブランクもありましたし、歌えないだろうと、怖い気持ちの方が大きかったですね。活動再開はデビュー25周年のタイミングだったのですが、ファンの方から「おめでとうございます」という言葉や「またコンサートが見たいです」というお手紙をいただいいたことがきっかけです。今、このタイミングでやらないともう一生やれないかもしれないと思いましたし、ちょうど子供たちも大きくなり、生活を任せられるくらいの年齢になっていたので気合いを入れてやってみようと決めました。そのときは誰かに相談されましたか?
事務所の方たちとたくさん話し合いましたし、夫や子供たちにも相談しました。ツアーで家を留守にすることも出てくると思うけど、こういうふうにやりたいということを伝えて…。「いいんじゃない!」と、家族も応援してくれたので全国ツアーも行うことにしました。全国を回るツアー『この街ツアー2020−22』も現在は終盤のスケジュール。コロナ渦でのコンサートでもありましたが、森高さんのパフォーマンスを楽しみにしている方たちに一番に伝えたいことは何ですか。
全国ツアー自体は2019年からはじめたもので、その流れで2020年以降もツアーを回る予定だったのですがパンデミックの影響もあり中止せざるを得ない公演も。開催ができた回も感染対策のためにマスクをしたままだったり、声が出せなかったり、これまでとは違った楽しみ方をみなさんにお願いしなければいけなくなりました。最初は、楽しんでもらえているのだろうかと不安に思うこともありましたが、みなさんの笑顔や拍手で声を出さなくても楽しんでくださっていることを感じ取れるようになってきたので、私自身も楽しむことに集中してそのことを伝えらたらと思っています。 -
2019年からスタートし、パンデミックの影響を受けながらも続けた全国を回るツアー『「この街」TOUR 2020-22』もいよいよ終盤のスケジュール。当時のイメージを彷彿とさせる衣装や演出が話題に。
現在のツアーでも注目を集めている当時の衣装を彷彿とさせるミニスカートとヘルシーな肌見せ。自分の体や心との向き合い方で大切にしていることはありますか。
コンサートに初めて来てくださる方もいるのですが、私が20代ときから応援してくれていたファンの方も多いんです。ステージでは新曲をやるわけではないので、当時のイメージで曲を聞いてくださるんですよね。今の自分の年齢のことを考えると、スカートの丈も長くしたほうがいいのではと考えたこともあるのですが、自分が逆の立場だったときに好きなアーティストがそういう風にステージに出てきたらちょっと悲しいな、と思うんです。それに曲と振り、ステージがあっての私なので、その曲にミニスカートのイメージがあるのであれば表現者である以上、ミニスカートの要素は表現をする上で必要なもの。もちろん、今回の衣装でステージに立つために体型維持はしなくてはとか、意識はします。けれど、出産も経験していれば、年齢を重ねるにつれてお肉の付き方も変わってくる…。20代の頃とは違うので、若作りをしたり見栄を張ったりはせずに、自分と向き合いながら今の私に似合うもの、今の自分に見合う形でいいんじゃないかなと思っています。 -
年齢を重ねること=オバさんになることではない! 今も『私がオバさんになっても』を歌う理由。
年齢を重ねるにつれ、仕事の向き合い方で変化したポイントはありますか。
仕事だけに向き合っていればよかった20代とは違い、家族ができて子育てをはじめてからは、仕事と家庭の両方をきちんとやりたいと思うように。20代のときは、がむしゃらでとにかく余裕がなかったのですが、子育てなどいろいろな経験することで余裕も持てるようになってきました。仕事にも子育てにも「自分らしく」という考え方は大切にしてきましね。それは、20代の頃から変わらなかったことです。これからの自分のために意識していることや大切にしていることがあれば教えてください。
私は「これからの10年をこうしたい!」みたいなタイプではないんです。今、目の前にあることを一生懸命頑張っていれば先が見えるかなと思いながらやっているので、目標にまっすぐに向かっていくという感じではないのですが、今やらないといけないことや、ワクワクすることを楽しんでやれていれば、自分が想像しているものに近づいていくのではないかなと思っています。何年後になるかはわからないけど、やるべきことをきちんとしていれば結果はついてくるものだと思いますね。ヒットソングのひとつ『私がオバさんになっても』。当時と比べて今、歌いながら思うことはありますか。
当時は私もまだ20代だったので、50歳を超えた今の年齢になってもこの曲を歌っているなんて正直思っていませんでした(笑)。当時の年齢だったからこそ思い切り歌えていた部分もありますが、今も『私がオバさんになっても』を歌えているのは年齢を重ねることが、オバさんになることではないと思っているから。見る人によっては、「50歳を過ぎてもうオバさんなのに」と感じる人もいると思っているんですよ(笑)! けれど、私から見てかっこいい、輝いていると思う人は目上の方にもたくさんいるので、毎日を楽しんでいれば年齢なんて数字でしかないのかなって思うんですね。それに『私がオバさんになっても』という曲は、好きな男性に対しての愛情ソング。内容も可愛らしい女の子の歌だと思いながら自分で書いた曲なので、今の私も歌えているのかなと思います。最後に森高さんのようなアーティストになりたい、自分の好きなことを表現したいと思っているVOGUE GIRL世代にアドバイスをお願いします。
歌にしてもダンスにしても才能があって、それをうまく表現している10代、20代の方がたくさんいるなと思っています。私が10代の頃にみなさんのような表現ができていたかと言われると全然そうではなかったので…(笑)。今はSNSなど、誰もが自由に表現する場所もたくさんあって、周りには自分を高められるものが常にある世界になっていると思うので、まずは自分を信じてやり続けてほしいですね。プロになるためには突き抜けるスキルや努力がなければ難しいこともあると思います。けれど、やり続ければレベルも上がっていくし、きっと誰かが見つけてくれると思うので、いつだって自分を信じる気持ちを忘れないでほしいです。