仕事に恋愛、結婚、出産……。今を生きるガールたちには、今、そして未来の悩みや不安が尽きないもの。やりたいことだらけの20代、30代を先輩たちはどんな風に歩んできたの? そんな疑問に答えるべく、ファッション業界で活躍する女性たちにインタビュー! それぞれが歩んできた道を知ることで、豊かな生き方のヒントを探ります。第2回目は、VOGUE GIRLをはじめ数々のモード誌で活躍中のメイクアップアーティスト・松井里加さんにお話を伺いました。
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コレクションの世界に惚れ、ファッションの道へ。
ビューティ誌にモード誌、広告ビジュアルにコラム執筆など多方面で活躍する松井さん。その親近感のある人柄と確かなメイクアップ技術に信頼を寄せる業界人も多いですが、最初はスタイリストを目指していたとか。
「私がファッションと出会ったのは高校時代で、『ファッション通信』というTV番組を見てコレクションの存在を知り、“こんな世界があるんだ!”と衝撃を受けました。大内順子さんのようなワールドワイドに活躍する女性に憧れて、まず足がかりとして、文化服装学院のスタイリスト科に進学したんです。
でも、進学してから気づいたのが、私、縫うのが本当に苦手ってこと!(笑) 毎日課題に追われる日々で、“この道でうまくやっていけるかな”と不安を抱えていました。文化服装学院って毎年ショーをするのですが、ある時ショーでヘアメイクを担当して。それがとても楽しくて、当時渡辺サブロオさんのファンだったこともあり、彼が主宰する原宿のサロン『SASHU(サッシュ)』のメイクスクールに通い始めました。いわゆる“ダブルスクール”という形です。スケジュールとしてはハードでしたが、今思うとこの決断が私にとっての転機だったのかもしれないですね」
その後、スタイリスト科を卒業し「SASHU」にフロント兼メイクスタッフとして就職した松井さん。当時の90年代後半はヘアサロンブーム真っ只中で、多忙を極める毎日だったという。そこからメイクアップアーティストへとキャリアの舵を切ったのには、どんな理由が?
「ひっきりなしにお客様が来るサロンでの仕事はとても刺激的でしたが、当時の自分の位置付けはヘアスタイリストではなかったし、メイクを極めているわけでもなかった。“このままじゃ高校時代に憧れた海外のコレクションに関われる日はこないかもしれない”と感じて、メイクアップアーティストを目指すことを決めました。その気持ちをサブロウさんに伝えたら、“松井、いいかも! できるかも!”って言ってもらえて。それがすごく嬉しかったです。
メイクでニューヨークに行きたいと周りに発信し始めたとき、当時の店長が桐島ローランドさんや紀里谷和明さんを紹介してくれました。クリエイターって自分の作品をまとめたブックというものを持っているんですが、当時の私は“ブックって何?”というレベルで。(笑)そんな状況を見かねて紀里谷さんや桐島さんが一緒にいろんな方を紹介してくれました。NY行きを決意してから半年間は、仕事を続けながら、その合間を縫って紹介してもらった仲間たちとブック作りに奔走する毎日でした」
苦難続きのニューヨーク生活。
準備を重ね、いよいよ渡米。とはいえ、ニューヨークですぐに順風満帆な暮らしがスタートしたわけではなかったという。渡米当初は日本に帰ることばかり考えていたという松井さんの考えが変わったきっかけとは?
「渡米してすぐはとにかくお金がなかったし、就労ビザだってそんなに簡単に取れるものじゃありませんから、“うまくいかなかったら、日本に帰ればいいや”と思っていました。でも、メイクアップアーティストとしてブックを見せて回るうちに、一緒に作品撮りをするフォトグラファーと知り合うことができて。一年くらいニューヨークでの生活が続く中で、人脈の輪も広がって人にも恵まれ、作品に取り組むのがどんどん楽しくなって、“誰も見たことないメイクアップ作品を生み出そう”って強く思った。そこでようやく日本に帰るという選択肢が自分の中でなくなり、腰を据えて、ニューヨークでやっていこうと決めました」
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ニューヨーク時代に撮影した作品の数々。「アイディア次第でどんどん可能性が広がるのがビューティの撮影。それがとても楽しくて、当時は仲間たちとさまざまな撮影にチャレンジしました。インスピレーションを求めて美術館にもよく足を運びましたね」
「その後最初にアシスタントについたのが『CHICCA(キッカ)』の吉川康雄さん。彼にブックを見てもらったら“あなたのメイクに面白さはあるけど、技術があまり見えてこない”と言われてしまって。“撮影におけるメイク”というものを全然分かっていなかったんだと気付かされました。そこからは、昼間には語学の学校に行って、深夜まで作品撮り、翌朝6時半からはアシスタントというスケジュールが当たり前。アメリカでメイクアップアーティストとしてやっていくためにビザを絶対に取りたくて、ハードな生活が4年くらいは続きました」
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高校時代に憧れたパリコレにも、メイクスタッフとして参加。「これはニューヨークから手配したメイク道具をさばこうとしているところ。ボスの荷物だけでトランク50個以上ですから、荷ほどきもひと苦労でした」
ニューヨークでの暮らしは体力的にも精神的にもハードだったと振り返る松井さん。アクシデントばかりの毎日をどうやって乗り切っていたのか。
「毎日財布には小銭しか入ってないし、突然家賃が何百ドルも値上がりして引っ越さなくてはいけなくなったこともあるし、ニューヨークで暮らすって毎日辛いことばかり。夜の帰り道で涙がこぼれたことも数知れず、です。でも、辛くてもなぜか“なんとかなる”感じがあったんですよね。努力を続けていたら必ず道は開けるはずだと思っていました。
ニューヨーク生活4年目でやっと事務所に入れて、ようやくビザが取れました。それからはたくさんの人に声をかけてもらえるようになって、仕事の幅もぐっと広がりました。アシスタントだけじゃなく、自分の仕事ができるのが楽しかった。そのタイミングで、超一流のメイクアップアーティストからファーストアシスタントにならないかと声をかけてもらったんです。それまでも緊急要員としてサードアシスタントに入ることはあったのですが、今回のお誘いはファースト! とても重要なポジションとして声をかけてもらったのでずいぶんと迷いましたが、その誘いはお断りしたんです。やっぱり私は私。今はまだ先は何も見えてないけれど、私らしいメイクを目指していこうと決心しました」
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ニューヨークでの6年間で日々書き溜めたノートたち。中を開くと、メイクについてはもちろん、出会った人からもらった言葉や、そのときの目標などが徒然と綴られている。「今になって読み返すことで、当時のことを思い出したり、新たな発見があったりするんです。文字に残しておくって、素敵なことだったんだなと感じますね」
活動の拠点をニューヨークから日本へ。
その後もニューヨークで着実にキャリアを重ねていた松井さん。ところが、渡米して6年、32歳の時に日本への帰国を決める。その決断にはある理由があったそう。
「当時ニューヨークで一緒に仕事をしていたヘアのKENSHINさんが、一足先に一時帰国をして。その後お会いした時に、“日本には今いいフォトグラファーがたくさんいて、ハイファッションの撮影も活発だ”と教えてくれたんです。それで、一回ニューヨークでの仕事をまとめたブックを見てもらおうと思って、一時帰国して日本の事務所を回りました。でも、その時はあまりいい反応をもらえなくて。ブックに並んでいたのがあまり日本の撮影になじまない形の作品が多かったからだと思います。日本で仕事が欲しいと思うなら、ちゃんと腰を落ち着けて日本の仕事と向き合わないといけないんだと痛感しました。
その一時帰国の際に、紀里谷さんにもブックを見せに行ったら“BOOKのメイクの中に、頑張ってメイクしている君が見える。そのモデルがそのメイクでずっと生きてきたように見せてこそ、本物のメイクアップアーティストだ”と言われたんです。“そのモデルだけが、輝いて見えるように。メイクしている松井里加を出すな!”って。そのアドバイスで憑き物が落ちました。メイクに向き合う姿勢がそこで変わりましたね。
当時、NYでファッションを極めるならもう5年は必要だと感じていたし、KENSHINさんのいう日本の素晴らしいクリエイターたちと一緒に仕事をしてみたいという思いがとても強くなった。ブックも手直ししよう、日本で事務所に入って本格的に仕事に取り組もうと思って、帰国を決めました。帰国するときは、“ニューヨークはもうお腹いっぱい! ありがとうございました、二度とごめんです!”って思っていたんですが、今になるとまた行きたいって思うから不思議ですよね」
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帰国してから徐々に『流行通信』や『ハーパーズ バザー』などのモード誌でメイクを手がけていく。帰国後にいい仕事ができたのは、ニューヨーク時代の出会いが大きく影響しているという。
「ニューヨークで出会ったフォトグラファーのマミ・キーナンさんが、“ニューヨークで一緒にやってきたから、日本でもリカちゃんと仕事をしたい”と言って声をかけてくれたんです。それで『流行通信』や『ハーパーズ バザー』のファッションストーリーの仕事に参加しました。それがきっかけになって、今の事務所のA.K.A.に入り、フォトグラファーの笹口悦民さんに出会って、彼ともたくさん仕事をさせてもらいました。素敵なフォトグラファーに出会えて仕事がつながっていったことが、本当に幸せだと感じます」
仕事だけじゃない。松井さんにとって、メイクとは?
毎日多忙を極める松井さんですが、ライフワークとしてメイクのボランティア活動も行なっているそう。介護老人ホームや被災地等で、ヘアメイクを施すボランティアだ。
「ボランティアを始めたのはニューヨーク時代です。社会と繋がるのに私にできることはメイクしかない、と思って『NY de Volunteer.』という団体を紹介してもらい、老人ホームを訪問してメイクをするという活動をはじめました。ボランティアでのメイクって、してあげることよりもらうものがすごく大きくて。女性が変わる、キレイになる。その瞬間に、たくさんのエネルギーをもらえるんです。それは仕事でもボランティアでも変わらないですね。みんなそれぞれの美しさを持っていて、それを引き出せた瞬間に喜びを感じます。
ボランティアを通して“人をキレイにするってすごい!”と、メイクの力を体感できたことも私にとって大きな学びでした。メイクされたお母さんの綺麗になった顔を見て、子どもが大喜びして踊り出したこともあるんです。そういうひとつひとつの体験がエネルギーの源になります。
ニューヨーク時代のボランティアでは、違う業種の人もたくさん携わっていて、友達もたくさん増えました。日本に帰ってからは『Tokyo de Volunteer』という団体でボランティア活動を続けています」
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メイクと切っても切れない毎日を送る松井さん。日本に帰ってきてからの10年をメイクと向き合い、駆け抜けていた日々だったと振り返る。
「ニューヨークにいた頃からお休みの日にメイクのワークショップをしてるんです。私の家に集まって、みんなでテーマを決めてメイクを仕上げ、それを見せ合って発表する。その活動は今でもずっと続けています。このワークショップを続けていることが日々の自分のメイクをアップデートし、私のメイクアップアーティストとしての根幹となっているような気がします。
日本に戻ってきてからは本当にあっという間で、毎日メイクのことばかり考えていたという感じ(笑)。でも今は生活を楽しむゆとりも自分にとって必要なことだと思っています。
恋愛とか結婚とかそういうことを考えている時間がないまま今に至りましたが、ここから自分らしい幸せを掴めたらいいなと思っています。あまり形にはとらわれず、自分がほっとできる居場所を持てたらいいですよね。そのためには、自分が自立していられることがとても重要だと感じています。精神的にも経済的にも自立してこそ、ほっとできる場所の存在が活きてくると思うんです」
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オールレッドがまぶしい「プラダ」のサンダルは、松井さんが20代の頃に購入したもの。「背伸びしてでも欲しいものを買うべき!がポリシーです。憧れの存在を身近な場所に置くことで、自分自身がそれに釣り合う女性へと成長できるから。それに、お金がない頃に手に入れたものって、思い入れもひとしお。ずっと大切にしてきました」
人生に無駄はない! ポジティブな姿勢が未来をつくる。
20代後半の大半を過ごしたアメリカでの暮らしは、自分にとって必要なことだったと振り返る。その思いに至った背景には、母の教えがある。
「当時を振り返ると、すごく頑張っていたと思います。だから、20代後半の自分に声をかけるなら“それでいいんだよ”って伝えたい。その頑張りが必ず開けるときがくるから、体に気をつけて、辛抱して時を待ってね、と。
“あなたに起こることは全て、あなたに必要なことだから。全部が結局、自分のためになることだから”と母に言われたことがあるんです。『本当は別にやりたいことがあるのに、どうして今私は全然関係ないことばかりしてるんだろう』って悩んでいる人も多いと思うんですが、でもそれがいずれ役に立つかもしれないと思うと、気が楽になりますよね。目指すものがあるのに回り道をしていると感じる時ってとても辛いけれど、自分の道さえ決めていれば大丈夫。どんな経験も無駄にはならなくて、未来の自分にとって糧になるんです。
だから、今の状況が辛くてもあきらめちゃいけない。“Patience is the key”ですね」
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最後に、今を生きるガール世代へのメッセージを!
「若いうちにぜひやってみてほしいのは、海外に行くこと。行こうかどうか迷っているなら、ぜひ行きましょう!
私自身の経験でいうと、ニューヨークは本当にいろんな人がいたので、嫌な人に出会ったこともありますが、そんな人でも愛おしく思えるような強さが身についたなと思っています。当時はお金もなくてたくさん苦労したけれど、振り返ると行ってよかったという思いしか残っていません。
慣れない土地で暮らすって、その後に大きな影響を残してくれます。いろんな人に出会ってそれぞれの人生に触れるってすごい体験! 環境の変化って人を強くしてくれるものだと思います。行きたい気持ちを諦めるのは簡単ですが、行こうと決心するのも自分です。短期間でもかまわないから、行ってみたいと思う気持ちをぜひ大切にしてください」