憧れのファッションやビューティ業界で活躍している女性達は、どんなプロセスを経て夢を形にしてきたのだろう? その足がかりを掴むべく、第一線で活躍している先輩方にこれまでのキャリアをインタビュー。Vol.12は「ラウラ(Laula)」と「ムジィーク(MOUJIC)」ふたつのブランドのデザイナーを務める中島世都子さん。海外も視野に入れて活躍する中島さんに、デザイナーという仕事について伺いました。
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小学生の頃、叔母が送ってくれた洋服を着て学校へ行くのが楽しかった。
スタイリストをはじめ、ファッション業界にもファンが多いブランド「ラウラ(Laula)」。そしてこの秋冬からデビューした大人のためのブランド「ムジィーク(MOUJIC)」。両ブランドのデザイナーの中島世都子さんは、ショップ店員からファッションデザイナーになった先駆けのような存在。そんな中島さんがファッションと出合ったきっかけはなんだったのだろう。
「小学校の時、大阪にいる叔母が東京に住む私と姉に毎年洋服を送ってくれていました。当時の子供服は今みたいに可愛い洋服がいっぱいってわけにはいかなかったから、叔母が送ってくれるちょっとセンスのいいものがすごくうれしかったんです。それを着て学校に行くと、周りの子からすごく褒められたり、全然知らない上級生の人も見に来て「可愛いね」と言ってくれたりして、そういうことがきっかけでファッションに興味を持つようになりました。また、私の母が洋裁をするというのも大きかったかな。ピアノの発表会の洋服とか、普段着るワンピースは母が全部作ってくれていました。なぜかほとんどが姉とお揃いなんですけど(笑)。そんなこともあって、子供の頃から常に服と接している感じがありましたね」
進路をファション業界にしようと思ったのはいつ頃ですか?
「高校を卒業してからファッションの専門学校に3年間通いました。デザイン科を専攻して、デザインやパターンについてひと通り勉強しました。とはいえ、結局私のふたつ上の姉がもともと専門学校に進学して、学校は違ったけれどそれを追いかけて私も進学した、みたいなところがあって(笑)。特にファッションについては、当時は姉の影響が大きかったですね。姉が読んでいる雑誌を読んだり、その時はサーフィンが流行っていたので、そういうサーファーファッションの雑誌を読んだりしていました。そのほかに影響を受けたのは、モデルの中川比佐子さん。私はミーハーだから、これがいいと思うと徹底的にそれを追求するところがあるんです。彼女にはまっていた19、20歳頃はよく彼女のファッションの真似っこをしていました。彼女はヴィヴィアン・ウエストウッドが大好きで、しょっちゅうヴィヴィアンを着ていた人だったんですけれど、そうなると私もヴィヴィアンが欲しくて欲しくて! 彼女が厚底を履いていたから私も真似して買って、メイクもチークを濃いめに入れ、ワイヤーの入ったスカートを履いて、と今思うと恐ろしい格好をして山手線に乗っていました(笑)。ファッションフリークでしたね。でも、デザイナーになりたいとは思っていなくて、周りの友人もお洋服に興味のある子が多くて影響を受けましたが、私自身はともかくお洋服の仕事を何かしらできればと思っていました」
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ショップ店員を経て自分自身のブランドを立ち上げることに。
ファッションが大好きな少女時代を過ごした中島さん。専門学校を卒業した後、どのような道を選んでファッションデザイナーという職業にたどり着いたのだろう。
「学校を卒業した後はどこかに就職しようという気にならなかったので、いろいろなセレクトショップで販売をさせてもらったんです。そうして、結局最後に手伝わせてもらったのが私の知り合いの経営するメンズのお店でした。ちょうどその頃レディースのお店を立ち上げたいから手伝ってほしいと言われて。そこのお店では管理と販売を中心に、海外のバイイングやオリジナルの企画をやらせてもらったり、規模が小さい分いろんなことを任せてもらえたんです。ショップに立つ以外のことに興味が向いたのはその辺からですね。結局そのお店は3年間で閉じちゃったんですけれど、閉じた後に私も何かやりたいなと思っていて。当時は裏原ブームで、私の周りのメンズのファッションをやっている友人たちも、みんなお店とかブランドをやっている人が多かったんですね。その影響もあったのかな」
その後、中島さんは、勤めていたお店の社長の協力のもと、自分自身のブランドを立ち上げる。
「お店を閉めた後に社長が、「自分たちのオリジナルの展示会をやっているから、何かやりたいんだったらブランド立ち上げて出してみたら?」と言ってくれて。彼が元々学生の時からのお友達で安心ということもあったし、何より私も結構チャレンジ精神が旺盛なので『え、いいの? じゃあやってみる!』と言って(笑)、とりあえず数型作ることにしました。今はいろんな人がブランドをやっていますが、当時は特にレディースのストリート系のブランドは本当に少なくて、数えるほどしかなかったんです。さらに販売をしていて、それからブランドをやるという女性はすごく少なかったですね。ちょうどその時裏原ファッションがレディースでも注目され始めた時期で、なんとなくメンズのショップさんもレディースをやりたいみたいなところも多くて、初回にして続けられるようなオーダーをいただいたんですね。それが『ラウラ』の始まりです。そんな背景があったので、当時はもう少しストリートのテイストに寄っていたかな。私も若かったので、割とそういうテイストのものを作っていたんです。でも何回かシーズンを重ねていった時に、ちょっと違うと思ってしまったんですね。自分が作りたいのってこれじゃないのかも、と。ブランドを始めて2年くらいでした。それから少し自分の好きなテイストの、今の『ラウラ』につながるものを作ってみたんです。ところが、そうすると今までのお客さんが結構離れてしまって。そこからが大変で売上も落ちちゃうし、継続できるのかどうかというところまで行ったんですね。何とかしなきゃと思ってもともとセレクトショップで働いていた縁で、そこのバイヤーさんに見に来てもらったり、どうにか続けていくうちに、大手のクライアントさんが戻ってきてくれたりして。時代の気分みたいなものもあったのかな。ギリギリでも続けていくうちにクライアントも戻って、それで継続ができたなって感じなんですよね。今思うと大変だっただけにいろいろ気をつけようと、調子に乗っちゃいけないなとセーブすることができているような気がします(笑)。今に生きている経験ですね」
写真/2016年の秋冬からスタートした「ムジィーク」はデザイナーの中島さん自身が着たいと感じる大人のためのワードローブを提案している。今シーズンのイメージは“森に佇む女性”。
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年齢を重ね変化した、自分のやりたいことを実現するために立ち上げた新ブランド「ムジィーク」。
この秋冬、中島さんは新しいブランド「ムジィーク」を立ち上げた。そのきっかけは何だったのだろう。
「私自身がさらに歳をとってきて、もうちょっとこういうの作りたいなと思う気持ちが芽生えてきたんです。その時『ラウラ』に自分が作りたいテイストのものを数型取り入れてみたんですけど、そうすると今までのお客さんは「ちょっと雰囲気が違う」と思う方もいらっしゃって。敏感ですよね。それって前と同じことになっちゃう!って思って。だったら別のブランドとして自分のやりたいことをやった方がいいんじゃないかと、今回『ムジィーク』を立ち上げたんです。『ムジィーク』は海外にも目を向けていきたいなと思って、今年の3月にはパリのショールームに持って行きました。とはいえ、『ラウラ』を動かしながら、『ムジィーク』のデザインを考えたり、ふたつのブランドを同時に運営していくのは大変。そこを今後どうしていくかが課題かな。人手が足りていないので、一緒に働いてくれる人も募集中です(笑)」
「ラウラ」と「ムジィーク」、タイプの違うふたつのブランドで今後どんなことをしていきたいですか? そう尋ねたところ、中島さんの眼差しは世界を見据えるとともに、国内にもしっかり向いていた。
「『ムジィーク』のほうは、この前からパリに出て新しいいろんな人に出会えて、すごく楽しくやっています。もうちょっとワールドワイドに、お客さんを作っていけるように伸ばしていきたいと思っているんです。その反対に、ラウラは日本でもっと頑張ろうと思っていて。というのも、日本のセレクショップ、特に地方の個人でやっているセレクトショップはショッピングモールやファストファッションの影響で、やっぱり経営がとても大変。それこそすごくいいお店なのに潰れてしまったところもあるんですね。そうやっていいお店がなくなっていくと、私たちブランド側にも必ず影響は出てくる。だから展示会ではいつもお互い頑張っていきましょうねと励ましあっています(笑)。ふたつのブランドをやっていくのは確かに大変なのですが、それぞれのやりがいを感じています」
写真/愛用しているバッグは「エルメス」。A4サイズも入るのがお仕事バッグの条件。お財布と眼鏡は「セリーヌ」。デザインのインスピレーションソースは海外のファッション雑誌。特にVOGUEはよくチェックしているそう。ポーチはお友達のブランド「ラドロー」。またバンダナもお友達のブランド「タカヒロミヤシタザソロイスト.」のもの。「ハンカチ代わりにバンダナを使うことが多いので、展示会では毎回オーダーしています」